国道287号線浅立の中央に当る西側の道端に、老松下に立ち並ぶ記念碑、墓石の一角に、弘化3年(1846)9月吉日の銘が入った建立者名のない「角石 式守 月見山 相撲供養碑」がある。その月見山という相撲については、当地の古老の言い伝えや、鶴岡市在住で山形県の相撲史を研究している花筏こと三浦健氏等の、このことに関する諸説はあるものの、当地出身の郷土誌研究家小形仁兵衛氏(故人)の調査されたものを総合判断してみると次のようなものである。月見山とは四股名で、名はおど蔵かおど平ともいわれる。出身地については残念ながら文献や過去帳等もなく判然とせず知る由もないが、浅立での旧家沼沢一門の出である人物と思われる。その人の仕事は百姓か川舟の人足をして働いていたもので、まれに見る大男で体格も優れた持ち主で怪力であったという。ある年、江戸相撲で第四代横綱谷風梶之助一行が秋田巡業に行ったときのことである。秋田の三吉神社の奉納相撲の際、三吉という小兵ではあるが怪力無双の相撲取りが現われ、谷風一行と同行した浅立村出身のおど平が谷風の弟子月見山おど平と名乗り江戸相撲の一人として、この秋田の三吉と相撲を取ることになり首尾よく勝ち、その褒美として谷風より化粧廻しを頂いて来たという。その時の相撲の取り口がまた面白い。相手の三吉は秋田きっての相撲巧者で、月見山がじりじりと押されて危うく見えた。その時そばで見ていた谷風が「しっかれやれ、オドー」と大声で激励した。取組中は声を出すことは禁じられているのに、月見山は思わず「よしきたー」と声を出したら腹がへこんだので、三吉はすかさず月見山のまわしの下に両手の指先をさしこんだ。月見山が「ウーン」と力を入れた途端、三吉の指先がボキボキッと折れたような音がして手の力がなくなり、月見山の勝利となったという。そこで勧進元である秋田の連中から「あれは逆手(反則)だ」と文句をつけられ、江戸相撲の連中はまごまごしていると騒ぎが大きくなり大変なことになると、逃げるようにして引き揚げたという。その時しめていた月見山の廻しには、桶のたがをはめたように青竹の節をこいたものを入れてあったという。そのことの真偽のほどは不明だが、その褒美に貰ったという化粧廻しを拝見したが、今にも飛び出しそうな虎か獅子の面をししゅうしたもので、長さ十三尺九寸、巾二尺二寸ほどのもので、その精巧優美な仕上がりは工芸品としても素晴らしいものである。この化粧廻しは浅立諏訪神社八月例祭日には行列の獅子の前方にお供する角力が着用していた。昭和三十九年四月本県出身横綱柏戸が使用した化粧廻しを当地出身で東京在住の方々のご尽力で相撲協会から譲り受けた廻しを神社に奉納されてからは前夜祭には谷風から貰った廻しを、昼祭りには柏戸の廻しを着用する習わしであった。現在は夜昼とも柏戸の廻しを着用している。
尚、浅立は明治十六年に大火があり、円通寺や旧家が類焼し文献及び資料が焼失しているため確証を得られず残念である。またこの浅立に月見山のような強力相撲が出現したことによって若者達の精神力、力自慢に奮起をうながしたことは確かである。
白鷹町老人クラブ連合会様 「白鷹のとんとむかしとうびんと」より
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